和食・日本酒を味わう
趣のある古い街並みを歩く
ローカルの信仰と暮らしを訪ねる
仏像・建築・伝統工芸品の迫力を感じる
精神性と格式の重みを体験する
美食のエンターテイメントを堪能する
フールとは、豚の飼育小屋を兼ねた便所のことで、中国南部や朝鮮半島から伝わったとされる。旧知念家屋敷内のフールの構造は、琉球石灰岩の石積みので、2つに仕切られ、それぞれが、切り石積みの側壁に石造アーチが架けられ、典型的な沖縄石造技術が残されている。2つの仕切りは親豚、子豚と成長に応じて分けられ、石積みの隔壁は、子豚が移動・・・
旧伊礼家住宅主屋は、明治後期、沖縄県伊是名村字伊是名に建築された民家である。 造りは、ヌチジャーと呼ばれる(柱に貫穴をあけ、貫を通して楔で締める構造)木造建築、屋根は伝統的な赤瓦を漆喰で固め、屋根シーサーがのせてあり、間取りは、正面右から一番座、二番座、居間、台所が配置され、奥に2室の裏座があり、部屋の間取りも広く南側・・・
この建物は、沖縄県久米島町字西銘にある、国指定重要文化財上江洲家住宅の敷地及び建物を忠実に模築した民家である。 文化・工芸体験・琉装結婚式会場などの場所として活用されている。 久米島の上江洲家は、1754年頃に建てられた琉球王朝時代の士族の家である。上江洲家は具志川城主の末裔で、代々地頭代(村長)を務めた旧家で、綿糸・・・
旧上里家住宅主屋は1934年頃、沖縄県伊是名村字伊是名に建築された民家である。 造りは、ヌチジャーと呼ばれる(柱に貫穴をあけ、貫を通して楔で締める構造)と呼ばれる木造建築、屋根は伝統的な赤瓦を漆喰で固め、屋根シーサーがのせてあり、間取りは、正面右から一番座、二番座、板間、土間の台所、裏には三室の裏座があり、裏座には、貴・・・
旧田場家住宅主屋は、明治後期頃、那覇市内にあった御殿(ウドゥン)を取り壊した際に、その資材を購入し、その資材を用いて、那覇市首里石嶺町に建築された民家である。 間取りは、右側一番座に隣接して1間分の広い板間が取られていること、裏座がないことなど一般的な伝統的民家平面とは異なる間取りである。このことは、石嶺町に建築された・・・
旧喜屋武家住宅主屋は、沖縄県の南部に位置する、八重瀬町具志頭字仲座に明治後期に建築された民家である。建築主は、旧具志頭村議長、4代目村長を務めていた家柄であった。 間取りは、正面右から一番座・二番座、居間、台所が配置され、奥に2室の裏座がある。 一番座には床の間と仏壇とは別に神棚があるのが特徴。 当該地区(南部)は、太・・・
赤い琉球瓦の入母屋造屋根で、北東を正面として建つ。建築年は約87年。 正面右より十畳大の一番座、二番座、三番座と続き、背面に裏座と突出する土間の台所を並べる。平面構成から軸組まで伝統形式であるが、一番座正面に設けた玄関庇やガラス戸建具は近代的な要素といえる。
世紀初頭に恩納村に移住と伝える。築年数は約126年。 北西に床と仏壇をもつ一番座と二番座を並べ,西側に裏座,南方に三番座と台所を配する。桁行 12.7m,梁間 5.45m,寄棟造,赤瓦葺の木造平屋建で,東と北に雨端を廻した伝統的形式をとる。
西石垣家が1955年頃に 買い取って自宅としたもので,桁行 8.18m,梁行 6.36m,寄棟造,赤瓦葺の木造平屋建。建築年は約115年。 もとは4室構成と推測される。間仕切りを取り払い,4方開放型に改造されているが,東・南・北3面に雨端を廻すなど沖縄の伝統的民家形式を伝える。
首里士族の家系で,琉球王府の大臣職を務めた与那原家が首里に建設。建築年は約217年。 桁行12.7m ,※梁間6.4m規模 ,寄棟造,赤瓦葺の木造平屋建で,建築面積102㎡。東方に各 9.95㎡の一番座と二番座とを並べ,その北方に裏座,西方には三番座と台所を配す。東面と南面の雨端(あまはじ)を土庇状とするのが特徴。
穀物類や種類を保存するための高床倉。建築年は約156年。 桁行2.8m,梁間2.1mに4本の丸柱を立て,高さ2.3mに床を張り,寄棟造,茅葺の屋根を架ける。高床は桁行4.3m,梁行3.8m規模である。柱外側の床の傾斜は10~20度程度で,奄美地方の高倉に近い形式。
琉球王府の貢納穀類の秤役を務めた旧家。建築年は、約156年。 桁行 14.5m、梁行 7.3m規模。寄棟造,赤瓦葺の木造平屋建で,南西に各8.2㎡ 一番座と二番座を並べ,東側に裏座,北方に三番座と台所を配する。四周にイヌマキの柱に支持された雨端を廻した沖縄の伝統的民家の形式をとる。
琉球建国の神アマミキョに関わる家柄と伝えられ,代々聖地の管理を務め,一番座に聖石を祀るための床の間を設けるのが特徴。建築年は約140年。 桁行 11.8m、梁間 5.45m,寄棟造,赤瓦葺の木造平屋建で,南側を三番座と台所とする平面形式をもち,東面北方と北面に雨端を廻す。
琉球村中央部東端近くの斜面下に移設されている。建築年は約120年。 便所と豚の飼育場を兼ねたもので,琉球石灰岩で築く。外形は約5m×約4mで,東側に飼育場,西側に便所を南北に3連並べる。各飼育場は1.2m×2.4m,深さ0.5mで,東壁にニッチ状の日除けを造る。
1923年に牧志家の当時の主人、牧志宗保によって建てられた。八重山の代表的な赤瓦の建築様式。2021年時点で、築98年。石垣市の中心地にあった。家主であった牧志宗徳は医師で、戦後初の石垣市長に当選し、1948年~1958年頃まで市長を務めた人物。石垣に水道を引く計画を持ち込んだ人物でもある。もともと病院兼自宅であったう・・・
1909年に、森田孫栄の父・孫詳(元与那国村長)によって建築された。1984年に旧住所から、同年石垣やいま村へ移築復元。2021年現在で、築112年。八重山の典型的な武士の屋敷の形式を代表する家屋である。部屋数も多く家の奥にも広い座敷があり、突き出た玄関を構えるなど自由に設計された建築。間取りは、床の間13.26㎡ 、・・・
1923年に建築。2007年に寄与され、2008年に石垣やいま村に移築復元。2021年現在で築98年。八重山の歴史・文化の父として偉大な業績をあげた喜舎場永珣の住居であった建物。喜舎場は、沖縄民謡を代表する「安里屋ユンタ」を発掘、全国に広めた人物。石垣市名誉市民でもある。喜舎場邸は特異な間取りを有しており、建築当時は玄・・・
1907年に大浜信烈が、甥の大浜信賢の為に建てた民家。信烈は日本で有名な大学の名誉職を務めた大浜信泉の父である。2008年に旧住所から石垣やいま村に移築復元。2021年現在で、築114年。信賢は医学博士として八重山郡民を苦しめていたマラリア撲滅に大きな功績をあげた偉人。大浜邸は住宅と病院と二棟に分かれており、医師の住宅・・・